「自分との再会」 12月17日
あふれる涙がとまらない。
その涙が、心の奥深くにしまっておいた出来事や感情を思い出させ、止め処もなく涙が流れてくる。堰を切ったように流れてくる。
私のそのときの涙は、悔しさや無念さのともなう強い悲しい涙ではなく、限りなく優しく、初めてわが身をいとおしく思う優しい涙でした。
11月8日のことです。
私はとうとう大学の社会人選抜入試願書を提出してしまったのです。願書を出したと言う、たったそれだけのことなのですが・・
私は、高校2年生に進級した時には、外交官か、ユネスコなどの国際機関の職員として海外で働くことを夢みていました。もし国内の仕事をするなら、弁護士若しくは新聞記者という漠然とした希望をもっていました。上智大学か東京外語大に進学したいというのも、一番の親友がそこに進学を決めていたので「私も」と思っていたのです。
しかし、その夢は、家庭の事情を配慮してあきらめ、その夏、担任の先生からすすめられて日本航空国際線乗務員の採用試験を受けたのでした。幸い合格し、夢の実現のためのお金を、着々とためることができました。しかし、その後次々と訪れる現実の壁に阻まれて、大学進学の夢は切実な、でも、遠い夢に。40歳になったら・・・息子が大学に入るときに一緒に・・・50歳までに・・母の介護が終わったら・・・といつしか夢のまた夢になっていました。
この8月に、ある大学のO教授とメールで連絡をとる用件が発生しました。仕事の合間に事務連絡を重ねるうちに、私の中に諦めかけていた進学の夢が蘇ってきました。O教授のメール文章の行間に、長い研究生活と大学のキャンパスから多くの前途多望の若者を輩出していらっしゃる尊い姿を見たのです。学問をする純粋な世界に入りたい・・その想いが次第に高まっていきました。
気がつくと、志望大学の応募要綱を取り寄せる時期に来ていました。応募要綱を入手し、すぐに母校に卒業証明書を取り寄せたものの、忙しい中、進学の意思は弱まるばかりです。受験申込みの手続きに手をつけず、自分の意思を確かめているような2週間がたちまちすぎて、願書は郵送では間にあわず志望校の北九州市立大学まで持参することに。提出のため出かける間際まで迷っていました。
ところが、大学目前の場所で幹線道路が工事中で延々と渋滞。締め切りに間に合わない可能性が出てハラハラしました。にもかかわらず、「私の受験に対する意志の弱さが原因だから、それも仕方ない・・」と、そこまで行っても自分の本当の気持ちがはっきりしていない「私」がいたのです。
締め切り5分前に提出会場に到着しました。
その後だいぶ待って私の手続きの番が来ました。が、卒業証明書記載の名前と現在の名前が違うのに、その証明ができていないことがわかり、「受理」ではないが、「預かり」にして頂けました。
そして、車に戻ったのです。
受験を公言したときのまわりの反応は「大変よ」「○○はどうするの?」と否定的なものが多かったのですが、そのような中で「頑張れ」と言ってくださった方に電話で「願書を提出しました」と報告しました。いつも「何でもには相談しなさい」と言ってくださるTさんです。
Tさんは「貴女は、10年前のPS道場(経営者の小さなグループの会合)で、いつかきっと大学に行くのが夢だと言っていた。私のその日の会議記録に書き残してあるのだよ。とうとう一歩踏み出した。よかったね」と、その言葉を聞いたとたん、涙があふれ、お礼を言った後は嗚咽になりました。意外なことでした。そんなに私は大学に行きたかったのか・・と。
もう一人のわたしが、私の脳裏に、過去の様々な情景を鮮明に映し出すのです。そのたびに、こらえきれずにうめき声のような低い声がでてしまって、感情が抑えられません。
そうだった・・・ そうだった・・・ そうだった・・・
「そうだったのね。よくこらえて頑張ってきたね。偉い!偉い!」ひっそり隠れていたもうひとりの「私」に対して、そのときの私はやさしく語りかけていました。
気分が落ち着くまで、30分は泣いていたでしょうか。
駐車場の警備員の方が心配そうにしていましたが、業務の終了時間になっていたのでしょう。いつのまにか誰もいなくなっていました。
夕焼けに向かって帰路に着きました。運転中!と気持ちを引き締めるのですが、それでも時々涙があふれてしまいました。運転中なので考えていないはずなのに、涙腺が緩んでしまったのでしょう。「感涙」とは、こういうものなのですね。
こうして、隠れていた自分と再会し、11月26日(ひどい胃炎を患いながらですが)、無事、受験に臨みました!
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