秋に想う 10月30日
秋まっさかりの今日この頃、それでもまだ本来の涼しさではないとのこと。
北の山々では初冠雪が見られ、九州の山々にも紅葉が訪れたそうですが、昼間は半袖でも快適な日が続いています。
太陽が沈むと、季節はより正直にその姿を現すのではないでしょうか。「秋の虫の声」とは言いますが、私の観察では「♪あれ、マツムシが鳴いている〜」というあの虫の合唱は,昼間がまだ暑い頃の夜に聞きました。今は、1〜2種類の虫の声しか聞こえません。
季節の移り変わりは、私の心を豊かにしてくれたり、希望や元気を与えてくれたりしてくれます。、けれども、情緒が不安定になると「秋」は淋しさを募らせ、「冬」は消極的な、閉鎖的な気持ちを強める要素が多々あるように思うのです。
私は、せっかくコンスタントに続けていた山登り(山歩き)の機会を、この数ヶ月、残念ながら次々と逃しました。これが引き金になり、何もかもを憂鬱な事件と感じてしまいそうで、今、心には危険信号がついています。ひとりで暮らしていると、落ち込んだときの立ち直りが遅いのかもしれません。私はドライな自分には慣れていないので、無理に自分を励ましたり割り切ったりするのが苦手ですでも、どこかに自分への安心感があって、この少しばかりの憂鬱感を、今は面白がって味わっているようです。
今夜は、何故か本棚にある詩集を3冊取り出し、読みふけってしまいました。
最後に、「折々のうた」(岩波新書)で、日本語の深い味わいや情景描写に触れて、ようやく感傷的な世界から解放されました。今日は、この本からいくつか、秋の歌をご紹介しましょう。
●あきの野の くさばのつゆをたまと見て
とらむとすれば かつきえにけり (良寛)
●月の夜や 石に出て鳴く きりぎりす (千代女)
解説:
キリギリスとは、今のコオロギのこと。
加賀生まれの千代女は、芭蕉の弟子の支考より俳諧を学んだ。
●行く秋や 手をひろげたる栗のいが (松尾芭蕉)
解説:
芭蕉は、大阪で逝去する直前の元禄7年初冬、故郷伊賀に2ヶ月程滞在し、さかんに人々と交歓した。
伊賀の人々は芭蕉の漂泊の旅による急激な老いを憂え、故郷にとどまるようすすめるが、彼は去った。これはその旅の出発数日前の句。
手をひろげて惜別してくれる栗の「イガ」にこめられた「伊賀」の人々への想いが隠されているのか
(「折々の歌V」より編集)
あなたも一句、いかがですか?
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